「『蝶の季節』が文学界新人賞に決まりました、おめでとうございます」
その夜八時頃電話がかかってきた。
大家さんに呼ばれ階段を降りて受話器を取ると、相手は文学界編集部の大河原だと名乗り「『蝶の季節』が文学界新人賞に決まりました、おめでとうございます」と言った。
昼間のことがあるから一瞬いたずら電話かと警戒したが、いたずら電話をかけてくるほど親しい人はいなかった。
声にも覚えがない。私の戸惑いには関係なく相手は話を進め、明日の午後社へ訪ねて行くことを約束して電話を切った。
部屋へ帰って一人になると、喜びがこみあげてきた。こんな幸運が自分に舞い込んでくるとは夢にも思わなかったが、生きていればいいこともあるものだと大袈裟でなく思った。
しかし一方「しまった」という気持ちもあった。
その頃は「柳行李」一杯の原稿を書き溜めておかないと、後が続かないと言われていた。
今は「柳行李」を知らない人もいるだろうが、海外旅行用のスーツケースよりまだ大きい入れ物である。
それなのに私には書き溜めた原稿はおろか、次にどういう物を書きたいという思いさえなかった。
何の準備も覚悟もないまま舞台に引きずり出されたというか、臆病で傷つきたくないから、安全な繭の中に閉じこもって、いつか自由に飛び回る日を空想していただけなのに、いきなり繭が破られ、蛹のまま引きずりだされたようなものだった。
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