シナリオ研究生の頃(8)

エッセイ

早急に脚本家を養成する必要があった。

提出したシナリオが2本ともAだったのは、私の他にもう一人いただけだった。

成績優秀ということで、シナリオ教室から東宝の脚本部と、出来たばかりのNHKのテレビドラマ脚本研究会に推薦してもらえた。

東宝へも面接に行ったが、当時水木洋子さん、田中澄江さんなど女流も活躍していたが、まだまだ男社会の映画会社でやっていく自信はなく、NHKの脚本研究会に入れてもらった。

テレビドラマの制作が本格的に始まろうというときで、NHKも早急に脚本家を養成する必要があった。

メンバーは十人で、NHKのラジオやテレビドラマの懸賞募集の入選者や、各方面から推薦された人たちで、交通費の名目で月1万円の手当が出た。

大学卒の初任給が1万2千円の頃だから、定収入のない私にはありがたかった。

NHKが渋谷に移転する前で毎週土曜日に丸の内にあった局に集まり、自分が書いてきた脚本のあらすじや狙いを話す。

その集まりには手の空いているデレクターたちも出席していて、気に入ればすぐ取り上げてもらえるから勝負が早かった。

立て続けに私の「ある町」「蝶の季節」「夜明けまで」などが取りあげられ、放送になった。

私はそれまで地方の民放局でだが、ラジオドラマを50本以上書いていた。

その中からテレビドラマになりそうなものを探せばいいのだから、書く材料はいくらでもあった。

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