シナリオ研究生の頃(9)

エッセイ

月曜から金曜日まで毎日5分の「赤ちゃん万歳」という番組を書いていたこともある。

映画のシナリオで大金を稼ぐ夢は実現できなかったが、とにかくテレビ脚本家としての道はついたのである。

ほっとしていたが、この道で成功出来ないことは知っていた。

時たまいい作品を書くだけでは駄目で、テレビの世界で生きていくには、連続ドラマを持たなければならないのだ。      

民放各局も含めると15分の連続ドラマが何本も放送されていた。

私と同じようにシナリオ教室から推薦された若い男性の川西さんは、15分の連続ドラマを持ち、それが好評で名古屋局制作の連ドラも頼まれ、たちまち売れっ子になっていた。

彼は器用な作家で脚色も、歌番組の構成も出来たが、私はその反対で、脚色は原作にこだわりすぎてダメ、ホームドラマも書けなかった。

ホームドラマなど何かといえば食卓を囲み、みんなに勝手なことをしゃべらせておけばよいと思っていたが、その意味のないただのおしゃべりが難しいのだ。

私の「夜明けまで」はNHKの看板番組「金ドラ」で放送され好評だったが、そこは大家や中堅の作家がひしめいていて、せいぜい年に一回か二回か取り上げてもらえるだけである。それでは到底生活は出来ないが、仕事を続けていくよりほかはなかった。

頼まれる仕事は何でもした。育児のことなど何も知らないのに、月曜から金曜日まで毎日5分の「赤ちゃん万歳」という番組を書いていたこともある。

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