「丸高万柳」(20)

エッセイ

友人と呼ぶことが出来るのはこの三人しかいないのである

私自身は文学者のお墓に入ることに異存はない。自分でお墓まで用意していることをほめてやりたい気さえする。しかし友人たちー今になって考えると、社交的な性格でなかったせいもあって、友人と呼ぶことが出来るのはこの三人しかいないのである。

 もちろん日常生活で付き合っている人はいる。しかしそれはその場限りの付き合いで、心からのものではない。家庭というものを持ったことのない私は、たいていの場合は何を話してよいかわからず聞き役に回る。相手は満足し、何でも話せる親友のように思ってくれている。

しかしそこにいるのは本当の私ではない。自分がどう思っているかなど口にせず、みんなと同じように見られたいという仮面をかぶった私である。

少なくとも小説を書いていた仲間はそうではなかった。仮面をつけずに言いたいことが言えた。小説を書いている仲間といっても相手が賞などもらって一段高みに立つともうそうではなくなる。言いたいことも言えず、言葉遣いにも気を付けないといけなくなる。

しかしこの三人だけはそういう心配はなく、自由に話せたような気がする。だから私にとってはいつまでも忘れられない人たちである。みんなもうこの世にはいない。私たちの時代はとうの昔に過ぎ去り、私だけが取り残されあれこれ言っているだけのような気がしないでもない。

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